写真を撮ることとマナー。

ブクマ繋がりでこんなエントリ。

たとえば食事中に、料理を一々写真に撮りたがる人って、頭がおかしいんじゃないかと思う。

 目の前に美味しい料理、向かいに新しく出会った人や親しい人、そして全体を包む落ち着いた空気。ここで、携帯カメラのあの「パシャリ」という下品で不自然で馬鹿でかい機械音を響かせる人がいるわけだ。少なからず。そこら辺のブログを見てみればいい。食事中に撮った美味しそうな写真で溢れているから。

 ねえ、何のためにそこにいるの?

あはは(笑)

この人のダイアリ、『頭おかしい』『死ねばいいのに』『死にたい』『正当性云々』という、
自意識過剰系痛ダイアリらしいので、
文字通り受け取ることは危険なのだけれども、
そういう、『一見よく見るけど意味なんか全くない単語』をより分けて行くと、
主張はこんな感じ。

a) カメラの撮影音は迷惑だ。

b) レストランなどの落ち着きを求める空間で、携帯カメラで写真撮影するのは単純にマナー違反だ。理由は、相手の人に失礼なことと、a)。

c) 想い出を可視化しないと不安な人はおかしい。
 むしろ、可視化に払う努力で目の前の楽しみを失っている。

d) 常に更新のことで頭がいっぱいなブロガーはおかしい。依存症?

e) ブログ依存症と、思い出に再現可能性を求める心理は似ている。ブロガーの多くは多分それ。そして無神経。


a) は、正しいと思います。
携帯のシャッター音ってさー、なんか色々設定できるでしょ。
もしそれでカメラ風のものを選んでも、『パシャッ』っていう音そのものが、
なんて言うか、『作った音』で、確かに耳障り。


b) も、一部は正しいと思う。
何故なら、a)は正しいから。

ブクマのコメントで書いたことを補足すると、マナーというのは、
良い意味でも、悪い意味でも、『多数決で決まること』なんだよね。常識と同じ。
だから、異文化と接すると、ショックを受けるわけで。
外人ばっかりのクラブに行って、『それはマナー違反だ!』とか言っても仕方がない。
『Sorry』の一言で終わる。

何が言いたいかというと、『完全にマナー違反』という意識は、今は旧いってこと。
一昔前なら、検討の余地無くマナー違反だったと思うよ。
ナイフが皿に当たる音も失礼な場所ならなおさら。
たださ、多くの人が、まぁそれくらいはいいんじゃない、と言いだしてるし、
料理人も、全員が全員嫌な顔をするわけでもない。
万全を期すなら、止めておくのが無難だけど、
だからといって完全に、何処のレストランでも否定できることではない。

そもそも、相手に失礼かどうかは、撮影者と相手の関係の話で、
僕らの議論には関係がない。
隣で撮影してるヤツが僕の相手にとって失礼だ、というなら話は別だが。
よく知った仲であれば、そういうことも不自然ではないし、
きちんと事前に断り、さっと撮影して食べ始めれば、
少なくとも相手の人には、失礼ではないと思う。
少なくとも僕の相手の人は、(2人の間においては)許してくれるよ。
(レストランの空気読め、ということになる可能性はあるが)

まとめると、論理に常識はあるものの、
なんの論拠もない。
ブクマを眺めて現在のマナーを学ぶべし。
(もしくは、レストランをもっと主張して、場所を限定すべき)


c) 一見正しいけど、でもそうでもない。
想い出を可視化せずにはいられない人は、この人の感覚からするとおかしいだろうけど、
それは理解できないという意味であって、
『おかしい人間である』というのであれば、それは論拠のない、言いがかり。

それから、可視化に払う努力で目の前のものを台無しに、ということなのだが。
これはねぇ。
思慮が浅いと言うよりは、経験が足りないと思うね。
僕はよく知ってるんだよね、可視化の努力と、楽しむ感情が、
共存して高め合う瞬間というヤツを。
楽しいという興奮と、そしてその顔を撮りたい、という衝動、
その二つが入り交じった状態。

僕はその存在をよく知っているから、可視化の努力か、目の前のものか、
という二元的な考え方には同意できない。

美味しい料理を目の前にしたときのことに限定してみよう。

確かにそう限定すると、
写真を撮る時間というのは『余分な時間』以外の何物でもない。
そういうわけで、僕もしょっちゅう写真を撮るのを忘れるわけだけど。
気がつくともう半分くらい食べちゃってたりね。

でもさ、まぁ、別に必死にブログをやってるわけでもない、僕の場合だけど、
目の前に美味しそうな物があって嬉しいとき、
その嬉しさを誰かに伝えたい、
ブログじゃなくっても良いから、取り敢えず撮っておいて誰かに見せたい、
いや、次来るときのためのメモでも良い、
そういう感情は、筆者の人には理解できないだろうけれども、
一般的には自然な感情だと思うね。

女性と2人で食事に来ていて、
(静かなレストラン…はあんまり行かないので(苦笑)
せめて、ちょっとおしゃれな創作料理くらいにしておこう)
『そういえば最近魚食べてないなぁ…』
『あ、じゃあ食べよう。こんなのあるよ』
『鰈の煮付け?良いねぇ。じゃあそれ』
『キター。うまそー。写真撮っても良い?』
『うん。撮れた?見せて』
『ほら。いいでしょー』
『うまそー。食べようぜー』
『おいしいー』
…という流れの中には、別に不自然なところはない。
写真を撮ることも、場を楽しむ一部になっている。

これが、会話もままならないような、静かなレストランであれば、無いよな。
だからさっき、レストランを主張して場所を限定した方が良い、といったのだけど、
そうでないなら、可視化の努力は、楽しむことと共存し得る。
そもそも、可視化の努力というのは、写真撮影という行為の一側面に過ぎないわけで、
写真行為の他の側面に楽しみを見出すことも、不可能ではないはずだ。


d) まぁおかしいと思うけどさ。
別に批判する必要もないと思うよね。実害ないし。
夢中になっていることがたまたま、ブログだっただけでしょ。

そうそう、誤解されるといけないので言い訳しておくと、
僕の場合、ネタを探して悩む時間はほぼ無いです。
てか、『今日の更新どうしよう』と考えたことは、ほとんど無い。
無かったら更新しなきゃ良いだけだから。
ブロガーがみんながみんな血眼…ではないと思うよね。
僕は別に知名度もどうでも良いし。

ともかく、おかしいというのは、個人の理解であって、
批判するには論拠が足りない。
きちんと上げるべき。


e) 写真撮影→想い出再現、ブロガー→依存、その両方共に論理の飛躍がある。
もし、写真撮影をする人が、想い出を残すことに固執する人たちと完全に同義なら、
固執しない人の方が珍しい。

ブクマのコメントで、
携帯でメシを撮影する心理は、ブログの普及と相関性があると思う。
というのがあったが、それならば理解できる。
何故なら誰の側にでもあるネタだから。
なおかつ、全ての人が大体毎日、昨日とも他の誰かとも違うものを食べてるから。
普及とは関係がありそう。
でも、そこから依存には飛ばないね。あいにく。

そして、ブログをしない人、mixiすら月1くらいの更新の人、でも、
これでもかっつーくらい写真撮ってますけど。
想い出の再現に固執する人と、ブログに依存する人、
二つの心理に共通点があることは認めるけれども、
(何か残っていないと、注目されていないと、不安)
それは、ここでの問題とは一切繋がっていない。
何故なら前述の通り、それぞれ、文中の表現からの飛躍だから。



そういうわけで、同意できる点は、
静かなレストランで、音丸出しで写真撮影するDQNは死ね、
というところだけでした(笑)

まぁそれは冗談として、空気読めよぉ、という限られた空間での不快感を、
一般論に無理矢理広げて、隙間を無神経な言葉で埋めていったがために、
こういう不細工なエントリができあがってしまったんでしょうね。

僕自身もたまにこういう失敗をやらかすので、他山の石としたいと思います。
まぁご本人がどれだけ気づいてるか知りませんが。