文章の書き方。

僕はプロではないし、自分の好きなように文章を書いている人間なので、
実際にテーマや、期限や文字数が決められた文章を書くのは難しいかもしれない。
まぁでもしかし、僕にも僕なりに文章を書く流れ、というヤツがある。


まず、これは文章に書かなくても同じことだけれども、
ある一つのフレーズが頭に思い浮かぶことが多い。
それは具体的でも、抽象的でも、
自明の理でも、明らかに間違っていることでも良いのだけど、
とにかくなんらかの結論や、仮定が頭に浮かぶ。

例えば、
69tracksの2人のDJは、イベント開始当初から音楽性の違いは顕著だったが、その間に共鳴する物があった

なんていうフレーズが浮かんだとする。
この時点で、それが本当かどうかはわからない。
何となく思ったことであって、調べてみたら全く違ったなんてこともある。
これを呆然と眺めてみると、頭の中にあった情報〔経験や知識〕が、
何となくその周りに集まってくる。


初期の頃掛けてた音楽ってどんなのだっけ…
ああ、一人がNick Lowe、もう一人がGreen Dayか…
確かに二人のセンスが完全に一致しているというわけでは無いなぁ。
だからといって、違和感を感じなかったのは何でだろう?
やっぱり、精神性的なものなのか。名前を付けるなら、『ロック』というような。

いや、でも、あの曲に関しては二人で取り合いになってたし
もしかしたらそんなことはないかもしれんな…
お互い、接している、重ね合っている部分は確かにあったんだ、
必ずしも、一致していなかったわけでもないか…


何て事を考えていくと、
徐々に、頭の中に、自分が書こうとしていることのイメージができあがってくる。
このことを称して、
『何かの周りをぐるぐると回りながら、考えを構築する』
と僕は表現しているのだけど、
結局、いろんな方向から、いろんな見方で物事を見てみて、
それがどんな形をしているかをなるべく正確に、頭の中へ移築する。

もちろん、それが文章となって出てくるのはまた違う過程なのだけど、
意識的にしろ、無意識的にしろ、
まず頭の中になにがしかがないと、何も出ては来ない。
で、なんらかのイメージができあがったら、
今度はそれを描写していく。

そうか、ロックとはつまり、人と違う何かを求めること、
自分は自分であり、自分の姿勢を追い求めること、
でもその前にエンターテイメントが無くちゃいけない、
商業的という意味ではなく、すべてのベースにあるものでもある、
人と違う物を求めているようで、結局は流れに乗ろうとしてしまった姿が
一方の道をはずした姿だったのかもしれない、


…表現が不適切だと思えば削除もする、
でも、多くの場合、前のセンテンスに刺激されて次のセンテンスが生まれる。
もし次に、

いやしかし、同じ音楽を長い間掛けることはロックだろうか、
もしそれが自分自身や、自分を取り巻く他の人間と同化してしまったら
それは人と違う自分だけの自分を求めることにはならないだろう、
ん、でも、同じ曲を何年も演奏し続けるロック・バンドは?
そのことだけで彼らがロックではない、といえるか?
彼らは誇りを持ってその曲を演奏し、それが自分たちであること、であり、
それと同時に、常に新しいことにも挑戦している…

という文章が続いていれば、
どちらかだけを削除するのは難しい。
二つの文章はちょうど対の形になっていて、二つの文章はある程度、
極端に書かれている。
最終的には、この二つの範囲内のどこかに結論を求める文章を書く。


結局文章を書くという作業は、大方、イメージの作業だ。
だから文章が出てこないのは、腕が動かないからではない、
そうではなくて、まとまっていない、
少し非現実的な言い方をすれば、『時期が来ていない』のだ。
そのイメージがまとまりさえすれば、
それが何であるかを説明するのは誰にだって出来る。

目の前に鶏がいたとして、その鶏の様子を感動的に描写するのは難しいが、
その鶏の様子を列挙するのはそうでもない。
『白い羽根で、赤いとさかで…』
文章を書くときもそれと同じ。
極力、過程をシンプルにすること、それが重要だ。


論理の展開?そんな物は書くときには考える必要はない。
話す言葉とは違って、後で何度でも読み返せるのだから。
イメージが揺れない限り、結論も揺れないだろう。


ま、そうは言ってもね、そう簡単にイメージは作り上げられないけれどね。
いかに素早くイメージを熟成させられるか、
それは、経験と運、としか言いようがないね。