例えば「演繹的な表現」がわからない人たち(その2)

パズルを組み合わせる人たちのイラスト(ビジネス)
その1 からの続きです。



話を元に戻して。


自分が思ったことを変換無くスッと出して、スッと理解してもらえると気持ち良いんですよ。

例えば居酒屋で働いているとき、アルバイトはみな大学生です。京都なので、京都大学、同志社大学、立命館大学などの比較的高学歴な学生が多いんですが、きちんと勉強をしてきた学生ほど話の理解度が高いです。これも以前「学習の意義」というテキストで書いたんですが、勉強をするということの本当の意味は、脳の能力をバランス良く伸ばすことにあります。そこに使う知識は数学だろうが国語だろうが日本史だろうが何でも良くて(科目によって伸ばす能力は異なる)、その学習を通して脳を鍛えることこそが学習の本来の目的です。もちろん大学入試を目指さなくたってそうした能力を伸ばすことは十分に可能ですが、僕らみたいな普通の家庭に育った凡人にとっては、勉強することが一番簡単で手っ取り早い脳の能力を伸ばす方法です。知識なんかオマケ。子供用の風邪薬に味が付いてるようなもんです。


きちんと勉強して大学に入学している学生は、やはりそういう脳の能力が高い場合が多い。もちろん個人差はあって、理解力はあるけど言葉で表現するのが苦手とか、口は上手いけど実は解ってないとかいろいろいるけれど、一般的に言ってそう。だからお互い手加減無しで発言できるし、発言の意図や、なぜそう考えたかを後になってわざわざ説明する必要は無いし、短時間で複雑なことがやり取り出来て齟齬もおきにくい。笑い話の笑いどころをもう一回説明させられるみたいな、興ざめなことも起きない。

学歴を重視するつもりはさらさらないけれど、でもね、論理的思考能力にしても読解力にしても修練の結果だからさ。全く走る練習をしていない人がフルマラソンで良いタイムを出せないように、学習という名の練習をしていない人が能力が低いのは仕方がないです。人間としては、それ以外の能力が高ければ良いと思うし。ただ事実としては、そう。人には論理的思考能力や読解力と言った言語コミュニケーションに利用する能力があり、人によって高い低いがあるということです。


続きます。 → 例えば「演繹的な表現」がわからない人たち(その3)



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