「個人の自由」の境界線

別に非常時に限ったことではないのだけど、特にこの10日間の間、
自分も含めて何度か混乱と矛盾を目にしてきて、その中で少し感じることがあったので。



例えば…「募金」に関する話。

多くの人は「個人の自由」という免罪符を付けた上で、「募金をしよう」という呼びかけや
「こういう理由で募金はしない」という表明をしてます。僕も「募金をしよう」という呼びかけをしています。

そういう人にとっては募金をしてもしなくてもそれは個人の主義によるもので自由なはずですね。
良いとか悪いとか個人的に思うことはあろうけれども、それが他の人と一致しないのもまたあることです。
僕が気になるのは募金を「する自由」と「しない自由」とはどの辺まで共存できるか?ということ。
表明や呼びかけをする辺りまでは僕は許容できると思うのですが、一部の人はそこからつい踏み込みすぎてしまう。

「自分はこう思う」という論理の補強のために、そうでない人を否定し始める。
自分の論理は「個人の自由」という言葉で補強しながら、酷い場合には人格を攻撃し始める。
(募金をするような無駄なことをする人は、など)
それは矛盾ではないですか?

批判しても構わないけれども、批判するのであれば相手に主張する自由があることを認めた上で無ければ、
話がおかしいでしょう?どうも気付いてないみたいなんだけど。



募金したことを公表する話についても。
世の中の流れが仮に「どんどん公表して輪を広げていこう」だったとして、
それに対して「いや僕は公表しないよ」とするのはアリでしょう。
論理は通っているし、気持ちだって理解できるし、公表するのもしないのも自由です。

でもそこから踏み込んで「公表する必要なんか無いだろ、公表してるヤツはただの目立ちたがり」になると
それはやっぱり話がおかしい。公表したい人にはさせておけばいいじゃないですか。
自分の主義を主張するのはいいけれども、そうではない人間を罵倒するのは不必要だし、
「放っておいてくれ」という自分の論理に存在している「自由」の概念に反しているのではないの?



同じ事は、買い占めの話でも「不謹慎」「自粛」の話でもあって、
片方の手に「自分の自由」を持ちながら、
もう片方の手で「他人の自由」を傷つけようとする人が多すぎるんじゃないか。

特に多数派の意見とは自分は違うと言いたい人の中に、
過激な表現で「ドヤァ…」とかしてる人が多すぎて、本当にもううんざり。
自分が放っておかれることの根拠として、多数派の意見の方も放っておけばいいじゃないのよ。
よくわかんないな。

結局、「個人の自由」なんて口だけで、誰も認めてないということなのですかね?