TAKARAZUKA

TAKARAZUKA(下書き)
とても幻想的な雰囲気だった。何もかもが。

宝塚歌劇を見に出掛けた。初めてのことだ。彼女の母がチケットを手に入れ、都合で行けなくなったので、娘に誰かと行きなさいとくれたのだ。彼女は、僕が「そんなもの!」というのではないかと、おそるおそる「行かない?」というメールを携帯によこしたのだけど、かねてから“TAKARAZUKA”に少し興味を持っていた僕は、二つ返事で、「行きたい!」と答えたのだった。

宝塚のチケットというのは、なかなかにプレミアらしい。特に、特別な日(初日、千秋楽、新人公演)と、土日のいい席(例えばS席の真ん中辺りなど)などは、なかなか取れないとのこと。今回は既に引換券があるので余裕だろうと思っていたら、いや、『引き替えで指定席の取り合いがある』とかで、彼女は僕のために(それともちろん宝塚に憧れていた自分のために)朝早く起きて、並んで、S席のいい席を取ってくれた。まさに、『きみって…まったく…』、だ。

関西、特に兵庫大阪の人の中には、勘違いしている人もいるようだけど、宝塚から遠い地方、例えば僕の出身地静岡などでは、それが一体どういうモノなのか知っている人など、ほとんどいないと言っても良い。それは関西だって一緒だよ、知らない人はいっぱいいると彼女は言うけど、いや、それとはレベルが違う。第一、これはもちろん特異な例だけど、スーパーの抽選で貸し切り招待になるなんて話は聞いたこともない。

宝塚駅で待ち合わせた彼女と一緒に、大劇場のエントランスをくぐったときの僕の気持ちと言ったら…。客は、ほとんどすべて、女性なのだ。ぼくはそのときその状況に動転して、「これはすごいな、すべて女性が演じる歌劇の客が全て女性なんだ、女性が演じて男性が見るという娯楽ならばどこにでもある、でもこれは違う、ここではそれが『文化』にまで『昇華』してるんだ。」なんて、論を唱えたりしたのだけど、動転していたわりに、案外はずれていないのかも知れない。だって、老い若いの差はあるが、見渡す限り女性なのだ。5,000人は入ると思われる劇場の中、男性は1%程しかいなかったのだ!

指定の席を探し当て、そこに着席し、若干の会話を彼女と交わし、照明が落とされ、指揮者が紹介され(フル・オーケストラなのだ!)、幕が上がったとき、僕は、大きな一つのことに気付いた。僕は、『圧倒的に』『部外者』なのだった。それはつまり、素人であり、男性であるからなのだが、いやそんな理屈よりも、幕が開いた瞬間に変わった空気が、僕を指さして、そう宣言したように思えた。そして、その部外者という感覚の他に、観劇者としても、蚊帳の外に置かれているような感覚が走り、それはその後30分ほどは残ったままだった。


演劇の内容そのものへの描写は、なるべく避けたいと思う。それはつまり、僕が、3時間に及ぶ演劇(2本立て、ロマンス/ショウ)について、筆を振るえるほどの知識を持っていないということと、そんな面倒には耐えられないからだ。
ただ、上演中の時間について、僕がどうしても言いたいことは、それは、非常に『幻想的』であったということだ。つまり、この感覚を拙い言葉で説明するならば、舞台上にいるスターと観客とは、ともに、ある種の『幻想』を共有し、そこに属するための約束を持って、同じ時間を過ごしている。舞台の上で繰り広げられる、素晴らしいショウ(これは本当に素晴らしい。世辞などではない、僕にはそんなことを言う理由はない)、その幻想さと、そこに関わる全ての人が想いめざす幻想と、そこに属すための約束という幻想。そして、いま自分がここにいるという幻想…そうしたものが、空間の中へと浮かんでいき、かたまり、そして、それぞれの体の中へと深く、入っていく…。そこに、これだけの人を引き付けるモノがあるのだろう。

全くの部外者であった僕が、そうしたことに感覚として気付き(理屈を付けたのは今の今のことだ)、幻想を眺め、少しだけ共感し、約束を結ぼうとしたとき…その、素晴らしい時間は終わってしまった。僕は隣にいる彼女とほとんど会話しなかった。そんな余裕はなかったのだ。

もう一度、ここを訪れる機会は来るのだろうか?もし彼女にこれを読まれた場合を想定して書いておくならば、僕は特に望んでいるわけではない。でも、もし、機会が訪れたならば、その時は、今日よりもっと『構えずに』席へと身を沈めることができるだろう。


そうそこに、リアリティ以外の現実はいらない。
幻想にて、全ては、繋がっているのだ…。

(2000.Oct.29)