体の声を聞く — スピリチュアルな意味ではなく

ランナー



考えることが溜まったときにたまーに書いている日記(仕事関連の話がほとんど)があるんですが、それを読み返してみると4/14(土)の時点で「5月からは必要以上に働かない」という方針を立てていました。

で、脳動脈解離を発症して1ヶ月間の休業となってしまったのは、その4日後のことです。




恐らく自分でも今現在の体の状態が良くないって事はわかっていたんでしょう。その時の状況は、料理長が倒れてシフトがめちゃくちゃになっていて、3月4月とかなりキツい勤務になってました。その上4月下旬も普段休みにしていたところにシフトを入れ込まれて連勤になり、キツい勤務が改善されないという状態。そもそもその前に店の事情で早く上げられたりシフトを入れてもらえなかったりして稼げなくなって、昼の仕事を増やしていたわけで、それをなんの相談もなくシフト増やされても……もしあのままシフトに従って頭痛を我慢して勤務し続けたらどうなっていたかわかんないですね。

そう考えてみると、病気は突然やってきたように見えて、実はそうでもなかったんです。病気の種類にもよるけれど、今回みたいな、生活習慣が積み重なって発症する体調不良のような病気の場合、どこかの時点で「あれなんかいつもと違うな」と思うタイミングがあるだろうし、そこで生活習慣を変えれば回避できるポイントというのがあったと思うんですね。実際、脳動脈解離は特別何か治療するということなく、「存在を認めて休みを取り自然治癒させた」というのが経過なので、それをもっと早くにやってれば、小さなレベルの解離で修復できたかも知れませんし、解離に至ることもなかったかも知れない。まあ気づけませんでしたけどね。



普段スポーツをしているとき、自分と会話するのが結構好きです。

まだ行けるのか?行けないのか?次の5kmのことを考えてこの1kmは少しペースを落とすか?それともこのまま行けるか?むしろまだ余裕があってペースを上げても大丈夫か?左膝は痛むか?右は?横隔膜と呼吸にまだ余裕があるか?ふくらはぎは?足首は?上り坂、この歩幅で大丈夫か?次の下り坂で少しペースを上げてみるか?それともピッチと歩幅を保ったまま流すように走ってみるか?

そういうこと「自分の状態を見て次どうするかを判断する」ということを延々考え続けるんですが、それと同じことを、日常生活でも自分に対してしてあげるべきなんですよね。そうしたら4月に倒れなくて済んでいたかもしれない。
(でも4月に倒れなかったら、今みたいに大胆に仕事の割合を変えることは無かっただろうし、微妙なところではありますが……)


決してすべて穏便に行けば良いというわけではなく。「あとで疲れると大変だからペースは上げないようにしよう」と思って走っていたら、いつまで立っても自己記録は更新できないですし。勝負を賭けるとき、リスクを取っても大丈夫だと判断できるときは、迷いなく勝負に出ることが出来る。そのためのコンディションを常に維持しておく。それが正しく「体の声を聞く」と言うことかなと思います。