譲歩に求める「見返り」

電車で老婆に席を譲るなど、明確な「見返り」を要求しない行為もあるのですべての場合に当てはまるわけではないけれど、一般論として「譲歩する」と言う行為は何らかの「見返り」を求めるものだし、その「見返り」は「等価交換」であることを望むものだ。譲歩に対して「ありがとう」というお礼で応えるのは、コミュニケーションとしては正解であっても、譲歩を巡るやりとりとしては不遜な態度に写る。例えば右折したい対向車に道を譲るのは、次のタイミングで自分が優先されることを期待するからこそのことで、「ありがとう」のクラクションで完了していることではない。譲歩と同等の「見返り」を相手から引き出してこそ譲歩した気持ちは満たされるのだし、自分が先に譲ってもらったときにはそれと同等の「見返り」を与えるべきだ。「自分は譲歩に当たって見返りを求めることはない」と嘯く人もいるかも知れないけれど、それはその人が悟りを開いた聖人であるか、またはただの欺瞞であって、俗世の人間の志向としては正しいとは言えない。


我が儘だとか自分勝手だとか言われる人を観察していると、そういう「等価交換」の意識が欠落している人がいることに気付く。自分では相応の「見返り」を与えているつもりになっているけれど、実際には全く与えていないか、もしくは十分な「見返り」になっていない。長期滞在しているホテルのドアマンが毎日ドアを開け荷物を持ってくれるのに対し、「いつもありがとうね」と言う言葉だけで応じているようなものだ。それは、相手の気持ちを理解しているとは言えない。複数の人間が共存していて異なる価値観で問題が生じている場合、例えば職場のエアコンの設定温度の問題など、誰か1人の設定温度に合わせていたとしてそれ以外の人間が望んでいるのはその人からの感謝の言葉ではなく、その1人からの譲歩だろう。周りが寒いと感じる温度を設定しているのなら、たまには設定温度を上げて冷えピタを貼るとか、そうした行為であって、「いつもありがとうございます」と言う言葉には文字通り以上の価値はないし、言葉は言い終わった直後に意味を失う。


「譲歩」というのは、譲歩されている人が考えている以上に強力な「要求」であって、感謝の気持ちがあるから許されているというような簡単なものではないと思う。もちろんそれで済むような関係もあるだろうけど、同等の関係であれば、譲歩にはそれなりの「見返り」、出来れば同等の譲歩で応じるのが一般的で正常なやりとりというものだし、その意志が欠落している関係ではいずれフラストレーションが生じる。相手が譲ってくれているからとそれに甘えていると、いずれ譲歩を引き出せなくなるか、やりとりが破綻する。自分の価値観を変える必要はないけれど、相手が相手の価値観を貫いたと感じるように誘導することは必要になるだろう。それは性格というようなものではなくて単純に「技術」であろうと思うし、欠落している人はそうした「技術」を学習する機会を得られなかった、ということなんだと思う。
(もちろん国民性などの理由で社会的に学習する必要の無い社会もあるかもしれない)


「人との譲歩のやりとりが不全であっても全然構わない」というスタイルの人ももちろんいるだろう。もしくは「自分は十分に譲歩しているはずだ」「なのに自分勝手だと揶揄される」と考えている人もいるかも知れない。そういう人に対しては、それ以上何も言うことはないし、接する際にはこちらに心の余裕があるときに限り譲歩すると言うスタイルになる。当然余裕がなければ譲歩はしないし、援助もしない。そういう人が存在していても全く構わない、というのが僕なりのそういう人たちに対する「譲歩」であり、その「見返り」として要求するのは、自分たち以外の存在を認めること。つまり自ら以外のものを否定したり、価値観の変更を強制したりせず、自らの価値観は自らの中で閉じておいて欲しい、である。

……だが既に述べたとおりこの考えも「譲歩」の「等価交換」に立った考えであり、理解されることはなく、この「譲歩」が満足に成立することはない。