喫茶ジジ


幼なじみやかつての同級生たち、大学、高校、中学、小学校あたりを見ながら自分のことを見ると、人生の「区切り」の有無に気が付く。多かれ少なかれ、また意図しようとしなかろうと、人生には区切りというものがあって、僕らくらいの世代までで言うと、

  • 就職
  • 結婚
  • 出産

みたいな感じなのが大きい区切りなのかなあと思う。友人を見ているとやっぱりその3段階で「人」が変わった人が多いし、というか変わらざるを得ないのだと思うけれど、例えばへらへらしてたやつが就職してから真面目な顔でものを言うようになったり、飲み歩いていたやつが結婚して家に直帰するようになったり、明日過ごせれば良いという風で働いていたやつが出産を機に真面目に働くようになったり、子供好きになったり。


そういうのは、そういうのを経験した人にとっては「ごく当然のこと」であって、わざわざ指摘するようなことではないだろうし、ましてやブログに書くことではないだろうけれど、僕みたいにそういう区切りが曖昧な人間にとっては「人ってそうやって変わるのよね」という何とも言えない新鮮な感じがある。

僕は高卒からニートで37歳……というわけでは全然なくて人並みに働いているのだけれど、大学在学中にお世話になってそのままなし崩し的に就職してしまったので、「大学生ここまで!」とか「今日から社会人!」みたいな区切りが全くない。「あ、じゃあよろしくお願いいします」みたいな感じでお金をもらうようになった。結婚についてはなんとなくしないままでいて、といっても状態としては殆ど結婚しているようなものだけど、それと「結婚しました」の間には主に周囲への影響という意味で大きな違いがあり、やっぱり区切りがない。出産については色々と事情もあって考えたことがない。



区切りについて、「ないと困るの?」と聞かれると、まあ無くたって別段困ったりはしないのだけど、区切りがある人とない人の一番の違いは、例えば「意識が大学生の時と繋がっているかどうか」。経験則でしかないけれど、多くの区切りを持つ人ほど過去のことは遠くに見ている。ないしは希薄になっている。僕にとっては、大学生の時に考えたこと(もう15年も前だけれど)は、今も共感できる部分はあるし、覚えていることもあるし、その時の友人は今でも身近に感じられるのだけど、僕以外の友人にとっては、それは想い出の一部分でしかないし、現在に直接的に繋がっているものではない。

会えばお互いに懐かしんで楽しんで話せるのだけど、少し話したとき、その共通のことに対するスタンスが自分とは違っていることに気が付く。想い出から遠くにいる人は、その想い出に近付いていこうとする。でも遠く離れていない人にとっては、それは近付く必要のないもので、そこにテンションの差がある。大学生の時のことだけじゃなく、20代前半とか、25歳の夏とか、そういうポイント、ポイントにおいてもそういうのがある。


仕方の無いことなのだけれどね。



結婚や出産を経験しないまま歳を取っていくことに焦りがあるか?そう問われたら、ま、正直別にない。してみたかったと言うのはあるけれど、僕にとっては生きている今が現実で最良の結果なので、それについて後悔はない。でも、色々と変わって行くにつれ、僕が持ったままでいる記憶から離れていく友人を見て少し寂しさを感じることはある。いや、それも当たり前のことなんだけどね。社会に出て色んな人と交わり、家庭が出来て、それでもなお年に何度も会わない友人との記憶を強く持っているなんて、気持ち悪いし。ただそれでも、寂しさは感じる。たまにね。