なんというか、コメントのしようがないな、と言うのが直後の率直な感想でした。1人の情熱溢れる報道写真家の一生を振り返りながら現在の日本に繋がる様々な問題点に焦点を当て、90歳を過ぎてなお活動を続けるその報道写真家の今も伝える、そんな映像作品でした。彼の伝えることは事実であろうし、彼の心情や信念や考えにも真実は含まれていると思うけど、どこかで「それがあなたの生きた日本」と感じている自分を否定できなくて。

単純に彼の生きた時代の殆どを僕が体験していないと言うこともあるけれど、それ以上に、彼の表現していることがどうしようもなく「主観」だからそんな感じを受けたのかもしれません。「表面的な5W1Hをさらうようなマスメディアの伝え方ではなく、実際に自分が中に入ってその中に何があるのかを伝えたい」それが彼の信条であって、そのおかげで多くの実りある事実が広く知られることとなりましたが、それは同時に「現場の人間が何を感じどう考えているか」であって、歴史事象としての「事実」では必ずしもなかったとも思うのですよね。例えば昭和天皇の戦争責任について彼が語っていることを、彼の表現を通して見たときと「昭和天皇の戦争責任論」を通して見たときでは見え方が違うこととか。

それは単純な政治イデオロギーの差異ではなく、自分の見る範囲をどこまでにするかという問題だと思います。目の前に苦しみにあえいでいる人間がいる、その根源になった人間がいる、根源になった人間が苦しんでいる人間を認めない。それに対して抗議している。その中に入ってその抗議を切り取り残す。その抗議が妥当であるかどうかは、事実が存在していることに対して特に大きな問題にならない。妥当であろうとなかろうと「苦しんでいる人間がいる」「苦しんでいる人間が抗議している」「苦しんでいる人間を救うべきだ」という事実は変わらないから。ただこれが、歴史事象としての「事実」にならない理由は、これと同種の事実が当事者の数だけ存在するからです。

「歴史書」自体は往々にして1つの歴史だけで書かれてしまうし、現代日本の「歴史」は少ない事実を選択して記録しているわけで、そのことが「ニッポンの『嘘』」という事になるのだろうと思うけれど、果たして彼らの問いかける真実を歴史に組み込めば『嘘』がなくなるのかというとそれは違うと思います。ある部分補完はされますが『嘘』はなくならない。このことは歴史とは常に『嘘』を抱えるものだということを示しているんだと思うのです。そしてそれを知った上で、それでもそれに隠された人間に寄り添って行く、それが報道写真家である…そういうことなのかも知れない。個々のイデオロギーや虚実よりも、その状況に向けられる視線が彼の視線なのかも知れないなと。

それでもやはり僕は思うのです。彼らにあなたに真実がある通り、僕にもやっぱり真実があるわけです。僕に彼らの真実が見えないのと同様に、彼らにも僕の真実は見えない。そうしたことが積み重なって歴史になっているわけだし、僕がこの映画で学ぶべき事は知らなかった事実に影響を受け考え方を転換する…と言う類のことではなく「僕は僕の日本を生きる」ということではないか。

そんなことを強く感じました。