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強いられていたかな…
少し前に妹と電話で話をしていたときにこんなことを言ってたのが気になってて。

妹「ほらお母さんて、私たちを良い大学に行かせるのに必死になってたところあったじゃん?」

なってたかな…僕の記憶となんか違う?


受験生のころ、母親に言われていたこと

確かに受験勉強もテスト勉強もしたけど、「良い大学に行け」って言われたことは一回もないんだよね。言われていたことは1つで「私立大学に兄妹2人やる余裕はないから頑張って国公立に行ってね」。別に難関校じゃなくてさ、地元の国立大に推薦でも良かったと思うよ。実家から通えれば家賃も浮いてホッと一息だったと思う。

だいたいが難関校にトライしたいって言ったのは僕自身で、地元の大学には行きたくない、出来れば早く一人暮らしがしたいって言ったのも僕。自分が受ける大学について親や教師含め他人の意見は一切聞かなかったんだよね。それが自分のやりたいことだったし、僕はそれをやって結果的に京都に来た、そのために勉強が必要だったと言うだけで、別に誰かに何かを強いられて勉強をしていたわけでは全くないね。

そんな自分の我が儘にお金と時間とエネルギーを割いてくれた両親に対して感謝、また付き合わせて申し訳なかったという思いこそあれ、親が受験に必死で子供である自分がそれに付き合わされたという感情は一切無いな。妹にとっては例えば母親が思い込んで先走ってそれが自分の希望と噛み合わなくてということはあったのかも知れないけれど、残念ながらその頃には僕は実家にいなかったからよくわからない。



そもそも「勉強」とは

「強いる」って入ってるけど、そもそも「勉強」って嫌なことや面倒なことを無理矢理やることじゃないんだよね。

Re: 勉強の定義 漢詩による由来 内田義彦著「読書と社会科学」等 - 多読と英語学習・試験に関する掲示板

1 漢詩における「勉強」等の意味

 第1の白楽天、勉強とは、「人生は、短いのだから、適当にする行動するという怠け者根性は捨てて、真の楽しみは勉強にあることを再三経験することにある。」という意味である。

 第2の欧陽脩、勉強とは、「人生の楽しみは、応分に、ほどほどに、などといわず、無理やりにでも享受すべきである。酒に背を向けるな。田舎の娘も、存分、春を楽しみ、今を盛りと咲き誇る花と、美しさを競う。お前も、一個の存在として、人生を楽しむべきだ。」という意味である。一海知義氏・漢学者による。

 第3の陶淵明、勉励とは、「勉強と同じ意味であり、学問や仕事を一生懸命することだけせよと述べているのではなく、それも大事だが、朝は、二度と来ないの例えどおり、機会を逃さず、自分のやりたい楽しみを尽くせ」という意味である。稲田孝氏・漢学者による。

 同稲田孝氏に依拠すると、勉励は、「努力」と同じ言葉であり、第3の詩は、夫が妻に送った蘇武の漢詩「努力して春華を愛せよ。歓楽の時を忘るることなかれ」と同じ心境であると説明する。



簡単に言うと「人生の楽しみを全力で享受すること」なんだよね。まぁいいやとか思わずに、貪欲に人生を楽しんで行けと言うこと。知識を詰め込むことそれ自体が目的じゃなくて、それをもってどうするかという話。そら興味も無い学科の知識を詰め込むのは苦痛かもしれんさ、でもそれ将来やりたいことに繋がるんならやるでしょう。

よく「遊びだからこそ本気でやる」なんていう言い方をしたりするけれど、勉強ってのは自分の楽しみの為にやるっていう前提があった上での「怠けて手を抜かない」ということであって、他人に無理強いされることはそもそも勉強ですらないのよね。だからうん、「勉強することを強いられている」というのは矛盾。



もし受験勉強がしんどくて止めたくなったら、一旦手を休めて良いと思うんだ。こんな時期だけど。んで、受験勉強が自己目的化していないか、勉強を「その後のこと」考えて捉えられているかを見直したら良いと思うんだ。もし何でも良いから「その後のこと」を考えられたら(明るいキャンパスライフとか卒業旅行でロンドンとか)、多分また受験勉強が「勉強」になると思うんだよね。強いられてまでやるもんじゃないし、強いられなくてもやらなくちゃいけないくらい大事だと思うよ。どんな勉強でもね。勉強を通じて知ることが出来るってのはそういうことじゃないかな。