「誰とでも解りあえる」そんなふうに考えていた時期が俺にもありました。


定義:

「解りあえている状況」とは
相手がなぜそう考え行動するのか理解でき、それに対して賛同できるような状況。

立ち止まってよくよく考えてみるとそれは幻想であることに気付くわけです。

同じ日本人であっても好き嫌いや生きる上での最優先事項や環境の違いや性別や年齢やイデオロギーが違うわけなので、それらが一致したり無視できるほど小さかったりするような「解りあえる状況」ってのはそうそうないわけです。実際問題「誰とだって解りあえるはず」と思っていたとしても、別に解りあえてはいないと思うんですよね。単純に相手が譲歩してくれているのを「解りあっている」と誤解していることはあるかも知れませんが。

だからどんなに言葉を尽くしても意見が一致しないことはままあります。人によってはそれが満足できずに「全てを」一致させたいという欲求を持ち、それが満たされないことにストレスを感じるようですが、共通していない部分さえも同一になるように変えていこうとするのはそもそも無理があると僕は思うし、まず解りあえないというところを受け入れるべき。

そんなことをこれまで何回か書いて自分に言い聞かせてきたような気がしますけど、それに加えて思うことがあります。1つは「解りあえなくても楽しく接することくらいは出来るしそうするとみんな幸せ…も無理」。もう1つは「解りあえない?だとしても何の問題もない」。

解りあえなくても楽しく接することくらいは出来るしそうするとみんな幸せ…も無理

仮に賛同できなかったとしても、自分か相手かどっちかが譲ればいいしそれで仲良くすることで楽しく過ごせるし、それでみんな幸せなんだからいいなじゃん的なリアクションをいただくことがたまにあるんだけども、うーん。そういう「ポジティブな」思考で積極的に人と交流し、楽しく幸せに過ごしている人もいると思うのでこれはあくまで個人的なことなのだけど、臆病で「ネガティブな」僕としてはそれはまず出来ない相談。

「みんな幸せ」そう考えていた時期もなくはないけれどその時に何が起きたかというと、「自分が誰かを嫌悪した」ということに少なからずショックを受けたのね。仲良くあればいいと思ってたのに俺はあの人に気分良く接することが出来ない、と。自己嫌悪かもしれません。自分なら出来るはずだしすべきだと思っていたのに出来ないというような。だからその時は「俺ってダメなヤツだ」と思ったけれど、でも世の中にこれだけたくさんの人がいるわけだから、嫌ったり嫌われたりすることは起こりうることなわけで、それにポジティブな希望をかぶせて楽観的に行くのは僕には出来ないのよね。嘘じゃんそれ。

「他人が嫌い」ということなのではなくて。仲良くできない人間も存在する、そういう覚悟を持って人と接すると「こいつダメだ」と思った時に受けるショックを減らせるということと、そうじゃない人を大事にできるというメリットがあるんじゃないのかなとぼんやり感じています。一期一会みたいなものですけど、失う可能性があると無いのとでは、対象に対する想いに差が出るんだろうと。いつだって誰とだって解りあえる状況で誰でも大事にする……と言うのは多分僕の性格から言って無理だろうなぁ。代替のきく消耗品は消耗品として扱った方が良いと思うタチだし。


解りあえない?だとしても何の問題もない

「気が合う」でも良いんだけど「解りあう」ことが示唆することの意味は、何かが起きる前にそのことについて共通の見解が持てるという予感を持てると言うこと。多分あいつも賛成するだろうというような。確かにそれがあると効率的に物事が進んでいくけども、同時に省略でもあります。関係性によっては、賛同を引き出すとかそういうことじゃなしに、コミュニケーションを取ること自体が目的になる場合もあるのにそれを省略できることが果たしていいのかどうなのか。んでもし実は解りあえてるんでも何でもなくて、相手が無理して全部「yes」と言っていてくれてただけだとしたら、解りあえてもなければコミュニケーションも足りないという状況になるけどそれでいいのかどうか。

結局の所、「解りあえてない状況でどうやって物事を決めていくか」を共有できていれば、解りあえて無くても別に良いんじゃないかという結論。片方が解りあえてるつもりでコミュニケーションをさぼると問題が起きるけれども、それはそのたびに修正していけばいいし、それで何かが変わるわけではないんじゃないかなーというね。

うんそうだ、「コミュニケーションをさぼる」って定期的に出現する状況だわ。油断とも言うけれど。そのことは別に何かが変わって上手く行かなくなったと言うことではなくて、ただ単に、背筋を伸ばす時期がまたやってきましたよ程度のことなんだろうなぁとちょっと思った。しゃきっ。