友人がその知人のこんな言葉をリツイートしてた。
(自分は知らない人なのでソースは伏せてます。返信とかではないので気にしない方向で)

時々、難解な文章書く人がいる。難しい感じや単語を使って書いてある。それを子供向けにしてもらうと全く書けず実は本人がわかっていない事がわかったりする。人に教えるとはそういう事。わかったふりが浮き出てくる

いやー真理だと思います。ただまぁ人に教えるって難しいよね...

特にこれをリツイートした友人は毎日悩んで、僕なんかが及ばないくらい悩み考えてるんだろうなぁと思うんですけど、「教えるのが難しい」のと「難解な文章を書く」のとは実は全く関係がないのではないかなぁと思ったり。文章上の装飾として、「平易な表現では書けない」の強調として「普段難解な文章を書く」が出てきているのだろうなと思うのだけど、普段平易な文章を書いている人であっても、誰か向けの文章ってのはなかなか書けないもんだと思うよ。それが不特定多数向けならより一層。


僕個人は、「難しい表現をする人」に対してその表現内容がわからずに困ったこともあって少しコンプレックス気味に感じるところがあるんだけども(特に哲学の話。結局それで諦めた感あり)、でも教えるに当たって「前提の了解」が必要なことはあるんですよね。ゼロから教えるのと、学習の手助けをするのとは違うし、子供向けとちょっと子供向けと大人なり始めと大人とでは教え方も違う。教えられる方の素養は問わないという状況ばかりではなく、解らない人は解るようになってからおいでねという教え方もあります。つまり、相手がいるってことだ。

まぁだからそんな意味で、書いてある文章が難解であろうとも、それがそのままで「教える」が成立するときもあるのよ、と。それは教えられる方の知識に話の一部分を担保して貰ってる状態。ゼロからじゃなく途中から始めるときは、そうでもしないとやってられないことも多いです。専門知識とかね。それは教えることを放棄した文章ではなくて、教える相手を絞った文章。

その対象が絞られた文章を誰にでも解るようにするのはもんの凄く大変で、そのことは「教えるべきことを解っているかどうか」とはまた違う次元の理解が求められるような。例えば「簡単なJavaScriptの書き方」であっても、コーディング経験がある人と、HTMLも知らない人とでは、教え方が変わります。むしろ誰にでも解るようにするよりも、その前提を教える人を連れてきた方が遙かに早いんじゃないのかという気もしたりね。



そういうわけで文章について大事なことは、難しいとか平易とかではなく、対象に適した表現を選択することだと思うわけです。
また理解についてもその対象に合わせた理解を準備する、ということじゃないでしょうか。
準備がないことと、理解がないこととは同じではないと思うのですよね。うん。