『緻密に計画し、適当に実行する。』

何となくしまりのない言葉だけど、何日か前、眠る前に暫く考え事をしていてふとそんなことを思った。なんとなく僕の行動はそんな感じのニュアンスで象徴されているような気がする。
例えば旅行に出かけることになったとする。僕はその土地の見所や美味いもの、それを食べる店、泊まる場所そういった場所を決め、泊まる場所から目的地までのルートを調べ上げて1日のスケジュールを切り予定が3日間なら3日分の時間単位の予定表を作る。移動が電車なら、どの時間にどのホームからどこ行きの電車に乗るかまで調べ上げて、完璧に事前に計画をする。そうしないと気が済まないとか落ち着かないとかではなくて、そうすることが好きなのだ。

そして、いざ旅行に出たらばその予定表は殆ど全く忘れられる。一応、緻密に計画した予定が記されたノートは持参していくけれども、そのノートは予定の確認よりもむしろ旅行記を書き留めるためのノートとして使われる(旅行記は絶対に電子機器よりも、紙とボールペンであるべきだと思っている。書き起こすのが面倒でテキストとして残せなくなったとしても)。自分が立てた予定だからおぼろげにその輪郭は覚えているけれども、それは困ったときに迷わない程度の話であって、もっと面白そうな場所があればそちらに向かうし、もっと美味しそうな匂いがすればその店に入るし、駅についてまず最初にすることは電車がまだ出ていないかではなくて次に来る電車の時間を調べることだ。

自分が立てた予定であっても、それがもの凄くエネルギーと時間を注いで作り上げられたものであっても、事前に決まっているからという理由でそれに従って行動するのはまっぴらごめんだ。全ては、その時に何をしたら幸せになれるかという基準で判断されるべきことであって、それが予定と重なることはあっても、予定が優先されることはない。そんなのは、本質を見失っている。



暫く、ここ2、3日、気分が冴えなかった。

きっかけみたいなものは色々とあるだろうけれども根本的な理由は、月並みだけども、将来への不安みたいなものだ。例えば僕の給料は驚くほど安い。今の僕と同じだけの仕事量をしている人間と比べると、バーゲンセール並みの価値しか付けられていない。新卒のワーキングプアだってもうちょっとマシだ。必然として僕には金がない。今後も多分変わることはないと思う。今の生活を維持して行く分には何とかやっていけるレベルだけれども、今の生活と全く同じことを続けていこうとも思っていない。

一方で、今の状態で働くことが嫌か?と聞かれれば全くそんなことはない。嫌なことを6年も続けていれば間違いなく病気になっていると思う。仕事の内容は充実しているし、好きだ。自分と直接関係のある部分に限って言えばどう見ても業績は伸びていて、それに対して十分な貢献が出来ている。そのことは据え置きにされた給与と並べると非常な苦悩になるけれども(明らかに利用されているだけだ)、それとバランスを取ることが出来る充実を僕は得ている。だからそのことに対して不満はない。

不満はないけれども、不安は消えない。そのことで時折悩む。



悩みがどん詰まりに来て、誰のせいでもないから誰にも話すことが出来なくて、話すことが出来ても結局愚痴の披露大会→俺が何とかするしかないんだよな、で気晴らしにしかならないことになって、一ヶ月くらい休職して寝袋だけ持って旅行に行くかとか冗談交じりに思い始めたとき、僕は、村上龍の『愛と幻想のファシズム』を読む。

正直に言えば、正論と理想から出来た青臭い話だ。僕はその内容が好きで現実世界で起こることを希望してすらいるけれども、多分それはない。だとしても僕の中でこの本は、村上龍の著作の中で最高傑作だと思っている。一見、何が正しくてどうすべきかを定義しているかのように見える流れの中での、ゼロとトウジの存在の関係の曖昧さが素晴らしい。

持っている文庫はとっくにボロボロになっていて、いい加減に新しい文庫かハードカバーを買おうかと思っているのだけど(今Amazon見たら、マーケットプレイスで上下合わせて49円+送料だった。絶対買う)、ともかく僕が一番好きなのは上巻の一番最後の場面。弱り切ったゼロが、トウジに温泉に沈められて無理矢理にオレンジを食わされて、“ゲッベルスの役割”を与えられる場面。

弱っている自分がゼロで、誰かからの救済を求めている…と解釈するのは簡単なのだけど何となくそういうことでもない気もする。要は…自分にはまだ出来ることがあるはずだ、ということなんだと思う。全てに失望して将来も冴えなくて自分には何も出来なくて死ぬしかない、と思っていても自分には果たすべきそして果たすことが出来る役割があるんじゃないかと。それを他者が与えてくれるか、自分でつかみ取るかは別の話で、自分の悩みなんて結局自分で見えていることだけの話なんだよなと。

この下りを読むためだけに上巻の全てを読んで、この下りを読んだ高揚感だけで下巻の残りを読んでしまう。



将来を心配し、先が見えないことに不安を抱くことは、「緻密に計画を立てる」ことに基づいた心理だと思う。もちろんそんな不安は僕に限ったことではないから、あくまで僕にとってはそうだという話でしかないのだけど、なんにせよ、おそらく将来をある程度見据えて予定を立て、安心したいのではないかと思う。

でも、自分自身で予期しているとおり、その実行は多分これまたもの凄く適当に行われるのだろう。考えてみれば大学の選択だって考え抜いた割には割と適当に決めてしまった気がするし(当時はWebがなかったから仕方ない部分もあったけど)、その案件がどれほど重大かというのは僕には関係がないような気がする。とりあえず…実行してみる。ダメならその都度アレンジしていく。

結果がそれなら、別に緻密な計画が無くても良いんじゃないのかと。目的地さえ見えていれば、多分僕は適当にアレンジしてやっていける。その諦めにも似た心境は、ゼロが躊躇した硫黄臭くなったふやけたオレンジと似ている。決して食い気をそそるものではないし、口に含んだが最後吐き気で気を失いそうになるかも知れない。でもきっと、それを飲み下すことが必要なんじゃないのか。



正直、まだ全然調子を取り戻せていなくて、この文章もウォッカをロックで飲みながらのぼんやりとした中で書いているけれども、でも多分そういうことなんだと思う。それをどうやるかとか、その先どうしていくのかとか、真面目に考えればいろいろと悩んでしまうことはあるんだけども、とりあえず適当にやってみれば良いんじゃないか。何もしないうちに神経痛めるほど考えるのは、さすがにもういいんじゃないだろうか。