このところ京都市では連日、右翼?っぽいヤクザが街頭を賑わせておりまして、
ただでさえデモや演説の多い河原町界隈がよりいっそう活気づいております。

件の人たちが精力的に活動している理由はどうやらこのあたりのようで。

全教の教研集会への、右翼の街宣車による抗議行動に揺れる京都?JanJanニュース
8月21日から4日間、全日本教職員組合(全教)などが主催して京都市内で教育研究全国集会が開催される。この教研集会をめぐって、会場の京都市勧業館「みやこめっせ」(京都市左京区)周辺では8月に入ってほぼ毎日、集会に反対する右翼団体が街宣車による抗議行動を続けている。

詳しいことはよくわかりませんが、
殆ど聞き取れない発言に『教育』とかの単語が混じることを考えると、
まぁそう言うことなのかもしれないな、という感じです。
件の運動に関して言えば、
何らかのメッセージを伝えようと言うよりも騒動を起こそうという印象が強いので、
JanJanの市民記者の方が書かれているとおり大音量を出すことが主目的なのかもしれません。

まぁそれはよくわかりませんけれども、
それ以外のデモやなんやかやを見聞きしていつも思うことは、
なんてかなー演出にあまりに手垢が付きすぎてて、主張の善し悪しはともかく、
全く心惹かれる部分がないんだけども、その辺どうなってんの?っていうところ。

そりゃ、30年とか前だったらそういう手法がいわゆる定番で、
そう言う活動を繰り返していくことで主張の浸透とか、
世論の誘導とかできたんだろうけども…今もそれって有効なのかな?


ふと言われてはっとしたんだけど、
日本以外で日本のいわゆる右翼みたいな、
でかいスピーカーとがなり声で、恫喝気味に街を練り歩くような政治運動って
他の国(欧米に限らず)でもあるんだろうか…とか。
一般人からすると、その姿そのものが彼我の大きな溝の原因で、
結果として世論との隔絶の大きな理由になっている気がするし、
それって本質を損ねてるんじゃないの?とか思うんだけど。

主張の浸透を念頭に置くんであれば、違うやり方があるんじゃないの?と。
騒音をまき散らして通り過ぎるだけのデモよりかは、
穏やかでも抗議集会(糾弾よりもディベート的な)の方が効果が高い気がするし、
街頭演説も脈絡がきちんとしてないと感情移入しにくい。
(以前市役所前で市役所に向かって演説してた人がいたけど…届いてるかなそれ)


僕が好きな小説に、村上龍の『愛と幻想のファシズム』があるんだけど、
そこに出てくる集団は、確かに1人のカリスマをいただいていると言う違いはあるけれども、
大衆に入り込む術において既存の政治集団(右翼にせよ左翼にせよ共産にせよ労組にせよ)とは、
ずいぶんと違っていて、いわば見た目大衆迎合的であるし、
それでいて説得力のある論理も用意していたような気もする。

んでそれを、例えば暴露雑誌とか、CMとか、フェスとか、
そういう口当たりの柔らかいモノに仕立てて出すって言う。
(もちろん、時代的に古い手法も出てくるけどね。示威活動とかね。)

出す体裁がどんなモノであれ、根源的な主張を変化させない限り、
それは本質的な損失にはならないはずで、
主張することが目的、で終わってしまわないあたりに演出の巧妙さがあると思うんだけど、
なんだろうね。社会で目にする巧妙な政治活動って言うと…日教組くらい?
後はもうなんか、正直なじめない。主張の検討にまでもいかない。


長いこと活動してきている人がたくさんいるわけだし、
それぞれ得意とする手法はあるんだろうけれども、
なんだろうなーもうちょっと時代にあった、大衆を騙しやすい演出ってあるんじゃないのかな。

少なくともそれは、騒音や不便で市民をいらつかせることではないし、
僕が街で目にする活動に限って言うと、
主張の浸透よりも主張すること自体が最終目標みたいな感じに見えて、
それってなんだかどうなのよ?とか思ったりする。

今どき、デモだなんだって理解してくれる人、同じプロ市民以外では、いないぜ?きっと。



右翼と左翼が街で出会ってどちらも筋の通った論戦を始めるとかだと、
なんか色々面白いし、双方の主張に耳を傾けちゃうのになーとか。

なにがしたいんだかよくわからんなー