依存、について考え続けている。

感情や主観に基づいた自分の判断に疑問を抱き、
ふと立ち止まって、違う視点から自分を眺めてみる。
そういうことは、これまでに何度もあるから、このことは別に特別なことではない。
こうあるべきだ、しなくてはならない、というようなことではないし、
自分以外の他人に何かを強制することでもない。
自分を見て、もしかすると自分は今こうなのではないか、と予測を立て、
だとするなら、この件やあの件は説明がつくかなぁ、と、
何となく思いを巡らせる、そんなことだ。
その思いを元にして、その局面の打開を図ろうとするのだけど、
仮にその予測が外れていて、僕の策が当を得ていなくても、
どっちにしろ閉塞感はあったのだから、特に損をするわけでもない。
あ、違ったのか、と思い、次に活かすだけのことだ。


依存の度合いが大きくなっているのではないか、
という僕の仮説に対する対策は、
決して、一時的に止めるとか、距離をとるとか、そうした安易な方向ではない。
先日の文章にトラックバックいただいた件に関連して言えば、
仮に僕の体重が550kgになったとしても、明日から何も食べない!などとするのは、
非現実的で、問題に対して正面から当たっているとは言い難い。
欲に動かされて悩み、欲を断ち切る…なんてことは、僧侶がすればいいことであって、
僕らは良い意味で妥協を重ねて、バランスを取ればいい。

僕の言う見直しとは、決して、そうした断ち切るという逃避ではなく、
それよりもむしろ、原点に立ち返る、という意味合いが強い。
原点、それは言い換えるなら、記憶にある中でもっともバランスがとれていた地点。
全てを、そのままその地点に戻すのは不可能なのだけど、
その原点を意識することで、それと、現在との差異が見えてくるはずだ、と思う。

問題にすべきことは、依存そのものではなくて、
なぜ、その依存が生じているのか、
なぜ、その依存が継続して僕の中にあるのか、ということだ。
差異を検討した結果、たとえば、それは愛が深まったからだ、というのであれば、
それはもう諦めるしかない。
僕の愛は、どうやらそういう暴走した方向に向きがちなのだ、と考え、
であるならば、その上で、どう行動すれば、
相手に不快な思いを抱かせずに過ごせるか、と考える。

煙草や、仕事のこともそうだ。
煙草に依存するのは、まぁ本当のことを言えば、ニコチンに中毒になっているからなんだが、
同時にこれは、そのときの精神状態に左右される。
ストレスがたまって苛々したり、緊張して不安になったりすると、煙草が欲しくなる。
物を食べて食後に一服が習慣になってしまうと、それがないと物足りない。
(一時、そうなったが最近では止めている)

仕事の場合には、言い訳がたくさんあるから余計にやっかいだ。
体面、経済的な問題、やりがい、義務感、仕事をする理由はたくさんある。
そして、そういう理由が、依存を受け入れる理由になるのだけど、
本来それとこれとは別の話だ。
仕事をしていないと、自分が維持できない、というのは、
ある意味でそれ以外の自分を失っている。
少なくとも僕は今の仕事に、そこまで自分の身を捧げる気はないし、それだけの理由もない。
にもかかわらず、カタルシスと賞賛を求めてしまうときがある。
結果、あとで後悔する。。


依存すると言うことは、ある意味で対象物との距離感が非常に近くなると言うことだ。
それ自体には、非常にシンプルなメリットがある。
それに触れることに対する、自分の中の許可が下りやすい、ということだ。
場合によっては、審査なしで許可が下りてしまう。
(そんなことを考えながら僕は今煙草に火をつけた)

でもそれは時に、視野狭窄と、それに伴う判断ミスを招く。
別にジェダイの理念を説明するつもりではないけれども、
依存し、執着することで、多くの感覚を失うことがある。
あくまで、その結果に対する原因のひとつとして、依存は存在する。
メリットがあり得るという点において、僕の感覚は依存の否定から出発しているのではなくて、
結果の否定からの仮定、ということになると思う。


そうした中で、僕は今、生活の中の様々な点について、
原点(大げさに言うなら、本質と思われるもの、と言い換えても良い)を見ようとしている。
恋愛しかり、仕事しかり、趣味しかり。
はじめに、何かしたいこと、または、何か感情があったはずで、
それに沿って行動してきたはずなのに、今なぜだか上手く行っていない。
その理由を僕は知りたいのだ。
感情について、ブレがないのなら(少なくとも恋愛については、無い)、
僕のやり方が間違っていたのだと思う。

どこを変えていけばいいのだろう?

それはまぁ、正直に言うと、よくわからないのだけど、
案外、感情に素直に行動すればいいのかもしれない。
感情に素直になったから550kgまで体重が増えた…のではなく、
それは、それに加えて何か過剰な衝動があったせいで、
感情に素直になることと言うのは、実は、過不足無い判断をすることなのではないか?

なんてことも考えているのだけど、
まぁ多分、答えは分からないんだろうな。