柳沢の件

はてな、Naoyaさんのエントリを受けて。

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naoyaグループ - naoyaの日記 - 自分にできないことをすごいと思う

僕のはてブコメント:

[あとで書く]気持ちが八つ当たり気味なのは認めるけど、それができるはずだからあそこにいるわけでしょう?自分には無理と、一面的な批判はいかがなものかは、別問題っぽい。


とりあえず、Naoyaさんがイメージしている、『批判をする人たち』、
Naoyaさんエントリに対する反応、
それらを読まずに、書いてみることにする。
だいぶNaoyaさんの意図と逸れそうな気がするけど、
自分の中の、柳沢に対するブーイングが、果たして、
柳沢に敬意を払っていないのかどうなのか、という視点を持ちつつ。
まぁその点で、『一面的な批判』と違って来ちゃってるので、どうだろうかね、という感じだけど。


* * *


僕が違和感を感じたのは、きっと、『非難』という単語が曖昧だったからじゃないかと。

僕の中でのあのシーンに関する結論は、極めて単純で、
あの場面で、柳沢が、W杯に出場している国でレギュラーを獲得している、
多くのFW(スーパーでなくとも)と同じようなパフォーマンスを見せていたら、
1点が入っていた、ということ。

柳沢のスタイルに関しては、代表戦でなかなか点を取れないということもあり、批判は多い。
僕自身も、その点は不満に思うが、一方で彼が無能かと言われれば、まったくそんなことはなく、
そこは、サッカーのバラエティ実況の限界でもあり、
あの狭い視界の中でさらにボールしか追えないという視聴者の未熟さでもあり、
彼が、彼に与えられた使命を果たせていないか、といえばそうでもない。
一人がフリーで抜け出せたとき、それが全てその人間能力のみ、ということはそうそうないし、
柳沢は、そういうチャンスを数多く作れる選手だ。
その点では、周りの評価は不当に低すぎると思う。
実際、同試合の中で、柳沢のパフォーマンスが良くなかったかといえばそんなことはなく、
そもそも、あのチャンス自体、柳沢がいなければ成り立っていなかったと思う。

しかし、彼に与えられた使命は、それだけではない。
それは、ピッチ上にいる全ての選手に共通することだが、
あのようなチャンスであの場所にいた人間なら、ボールをゴールに入れることが使命だ。
それが出来れば、凄い選手だし、出来なければ、凄くない選手だ。
少なくとも、あのシーンにおいては。

だから、観客はブーイングをする。

そしてもちろん一方で、素晴らしいプレーには、賞賛を送る。

一般論にメタ化していうとわかりにくくなるが、
そうした、意図のあるブーイング、賞賛、それがスポーツ選手に対して払う敬意だと思う。
むしろ逆に、あの柳沢のプレーに関して、無批判のままでいるのは、
それは敬意なんかではなく、ただの、無批判な姿勢、でしかない。

批判のための批判をしたがる人間はともかくとして、
あのプレーに対してネガティブなコメントをする人間は、
選手に対する敬意が足りない、と指摘されたのでは、それはあんまりじゃないか。
尊敬することは、批判しないことと同義ではないはずだ。

そもそも、自分に出来ないことが出来る人間を尊敬することと、
あのプレーを批判することに、何らかの関連があるんだろうか?

プレーに対するブーイングは、ただの批判ではない。
観客のブーイングは、悪意ではなく、要求だ。
柳沢が点を取れなかったからといって、彼が憎いわけではない。
ただ、為されるべきことを指摘することは、観客として当然の主張だ。
それは別に柳沢とは関係なく、
どんな偉大な選手に対してであれ、常に行われる。
それは同時に、為すべき事を為す選手に対する賞賛と並行して行われるべきことだし、
為すべき事を為さない選手に対して、ブーイングをしないことは、
為すべき事を為す選手に対する敬意を損なう。


良いプレーには、賞賛を。
悪いプレーには、ブーイングを。
それが、選手に払うべき敬意の、形の一つであって、
それらをひっくるめるような、『非難』という単語で、
これらの敬意を安易に否定して欲しくない。


お前には無理だろ、だから悪く言うな、というのは、実際、あまり根拠がない。
出来ないからこそ、あのピッチに立って居るんじゃないか?
だから、この状況で、その論理を導入するのは、始めから無理がある。
その論理で言えば、あらゆる『非難』は否定される。

人間というのは、ひとそれぞれ全く違うことをして生きているわけで、
友人の誰にも出来ないことを僕が出来るのと同時に、
僕が出来ないことを容易にやってのける友人は大勢いる。

いや友人じゃなくても、
スーパーでレジ打ちするおばちゃんのように、僕は客をさばけないし、
タクシーの運転手のように、要領よく客を届けることも出来ないし、
居酒屋のアルバイトのように、酔っぱらいに無難にメニューを届けることも出来ない。

そういうことを前提にすればするほど、非難の持つ意味はより否定的になり、
非難そのものを否定することになるだろう。

しかし待ってくれ、そんな結論で良いのか?
いかに、インスピレーションだったにせよ、非難の内容に触れなくていいのか?

客をさばけないおばちゃんや、
道を遠回りしたあげく渋滞に捕まる運転手や、
メニューを間違えた上に逆ギレするアルバイトに対して、
要求することは、否定的なことか?
重要なことは、その非難が何を意図していたかと言うことではないのか?

柳沢に戻って言えば、
だから柳沢はだめなんだ、とか、
柳沢じゃなかったら勝ってた、とか、
そうした、あのプレーだけに即しない、
彼自身に対する非難が為されるべきでないのであって、
その単語自体が、否定されるべきことではないように思う。


きっと、Naoyaさんが目にした非難は、柳沢に対する敬意を含まない、
むしろ悪意すら含んだようなものだったのだろう。
でも、そこから、『非難』と、出来ないことと、尊敬を結びつけるのは無理がある。
できることは、『その非難』と、尊敬を結びつけることだけで、
Naoyaさんが大事にしている尊敬の仕方の一つが、
自分が出来ないことを出来る人に対する尊敬、なだけなのでは?
同一項を含むだけであって、僕には関連がよく見えない。


エントリはそのまま、尊敬を抱くことについて流れていってしまっているので、
上記の点に関しては結論はないけれども、
為されるべき事が為されないときに要求することは、
尊敬と並行して重要なことなのではないかと思う。

悪意を持った非難というのは、尊敬を持ち出すまでもなく、
最初から唾棄すべきことであるというのは分かっていることだからだ。

* * *

そういうわけで、Naoyaさんの言いたかったことって、
柳沢と関係ないよね。

ただ、インスピレーションがそっから来ただけで、
それはトイレに入ってて、何かを思いつく僕と同じく(苦笑)、
別にそのアイディアとトイレの間に、確たる関連があるわけでもなく、
もちろん、精査すれば少しくらい要素はあるかもしれないけど、
ま、言いたいのはそこじゃない、と。


2番目のエントリに沿って書くのであれば、
それが誰であれ、凄いところを持つ人を尊敬する、というのは、
誠実なコミュニケーションにおいて、非常に大切だと思う。

人を、一面的な評価しかできない人は、やっぱりなんだかなと。
ブーイングにしても、賞賛にしても。
手放しで僕をほめる友人は、やっぱり信用しづらい。
欠点だらけだもの。
人間として言えば。

ここが良くて、ここがそうでもなくて、
でもやっぱりこれ出来るあなたは凄いよね、

まぁ別に口で言わなくても良いんだけど、
誠実に接すると言うことは、きっとそういうことで、
それはおそらく、敬意に近いこと(または敬意)で、
それによって、相手に対して思うことや、
逆に相手が自分に対して思うことが変わってくるんだろうなぁと。

色んな人に会ってると、自分の要求を満たさない人間は無価値、
という付き合い方を強要する人間も居るんだけどさ、
それってどうなんかなーと思うわ。
それだと、結局、自分が出来ることが出来る人としか、付き合えないもんな。

良い悪いとか、そういうことをほっぽり出して書くと、

そんな人生、つまんない。

そこんとこ考えてみるだけで、結構、面白くなって、
自分だけじゃ出来ない色んなことが出来るようになるのにな。