昨日、寝ようと思ったら平成紅梅亭が始まってしまって、
寝るに寝れなくなってしまった。
出演は、

露の五郎兵衛
桂米朝
酒井くにお・とおる
笑福亭松之助
桂春團治

という4人1組。
最もやばかったのは、わざわざ言う必要もないけれど...、桂米朝。
なんて言うかなー凄いなぁ、面白いなぁ、と思って聴いてた。

いや別にね、古典をやってるって言うんで凄いって言ってるんじゃないけども、
春風亭昇太の言葉を待つまでもなく、
古典も新作も関係なく、面白い噺を話せる噺家が一番良いんだと思う、
好きなようにやること、それこそ落語だと思うけれども、
そうなんだけどね、桂米朝という芸はなんだかさぁ、
そういうところとはまた別のところにいるような気がしたんだよねぇ。
枕でもネタでも、アドリブもあり、老いを感じるところもあり(苦笑)、
どう言うかな、
古典を好きなようにやっている、
古典で遊べているような気がするんだよね...


こんなところで、桂米朝という噺家を褒めることに何の意味もないけれど、
この間、春風亭昇太のドキュメンタリーを見ていて、
新作にもこだわる...と言うか、落語そのものの本質にこだわる姿に、
気持ちよさ、そしてもちろん面白さ、共感、いろんなことを感じたのだけど、
なんとなく、かすかに、『古典』という単語、概念から、自由になってないような気がして、
ドキュメンタリーの描き方との間に、ほんの少し違和感を感じたんだよね。

『本格派とか、意味が分からない』

そう言う言葉には、彼自身のイデオロギーが正しく投影されているんだけど、
なんとなく、意識するが故に避けている、ような。
(本当のところどうかは僕は知らないけれどもね)
や、実際に古典だってやってるし、避けてるわけではないはずなんだけど、
何か引っかかるのは思いこみなのかなぁ。


きっと、そう言うことを意識しなくなって、
古典の中で新作を作れたり、新作の中で古典をもって来れたり、
なんていうか、時代の物差し無しで、ネタが介在することなく、
噺家と客になれると、名人、と呼ばれるような気がする。
なんだか違和感については上手く整理できないままだけど、でも、

米朝は凄いね。
厚みを見た。