where their eyes are aimed

『Number』という雑誌を、
どれぐらいの人が読んだことがあるのかわからないけれど、
記事を読んでいて僕がいつも気にすることは、
『誰が書いているのか?』ということだ。

雑誌というメディアの性質上、
その記事を誰が書いているのかということは、一般的に、注目されないことが多い。
記事を書いているのは出版社のライターであり、編集長であり、
誰、と名乗るようなものではないことが多いからだ。

しかし、Numberは違う。
あれは一種の、『論文集』、だ。
スポーツ以外の批評でも同じことかもしれないが、大事なのは、
一冊の中の縦の流れだけではなく、筆者を通した横の流れ、でもある。

たとえば、日本サッカーについて書かれた文章があるとする。
今号の記事はやけにジーコの戦術に辛辣だな、と思っても、
それがそのまま雑誌の態度ということにはならない。
筆者が後藤健生であれば当然の流れだし、金子達仁であればもっと心情的、感傷的だろうし、
戸塚啓であれば、西部謙司であれば…、という特徴がある。
F1記事の筆者が今宮純(もしくは今宮雅子)であれば安心できるし、
そうでなければ力が入りすぎているな、と感じる。
イチローのインタビューが、佐藤俊であれば、書いてあることが本音であるとわかるし、
その他多くの筆者に関して思うことが多くある。
人によって、書くことや、思うことが違うのだ、と認識するのは、非常に大事なことだ。

テレビやインターネットを始め、多くのニュース報道というものは、一般的に匿名である。
Yahoo! にとある記事が載ったとき、多くの場合は、
『時事通信』『ロイター』という区別のされ方をする。
記者名が載るときもあるが、多くの場合はクレジット以下の扱いだ。
必然的に僕らはそれを額面通りに受け入れ、事実と感想とを一緒くたにして取り込む。
溢れるようなニュースを、全てそのように受け入れ、それに慣れてしまうと、
自分で考える、ということをしなくなる。
誰かの主張で固められた、薄っぺらい人間の誕生だ。

重要なことは、何かを目にした後に始まる。
筆者に比べて、僕らが持つ情報は、あまりに少なすぎるが、
しかしそれでもひとつの視点を持つべきであることには代わりがない。
後藤健生と、西部謙司と、金子達仁と、…それから自分とで、ディベートを行う。
そして、誰かのどこかは切り、誰かのどこかは拡張し、
確かに切り張りではあるが、それでも自分だけのものを作り上げる。
それが重要だ。


僕らの存在意義というのはつまり、そこだ。
一つの世界を共有し、異なる視点を持つ。
他人の視点は僕にはないし、僕の視点もまた然り。
僕が、人間のことをもっと知りたい、と思う理由も、そこにある。