文章を書くこと。

最近、というかずっと前からだけど、
かなり悩んでいる。

何をどのように、どこまで書くのか。
たとえば、僕がフィクションとして小説を書いたとする。
フィクション=作り話、であっても、
そこに登場するモデルはリアルだ。
それが小説じゃなくても、同じ。
僕に意図があってリアルを曲げている場合は、
それはねつ造というのだが、
リアルと違っても常に捏造というわけではない。

僕自身が感じていることが、現実と違う場合、
書き出されるものは捏造ではなく、僕を通して見る世界だ。
僕は、それを事実として認めている。
それが間違いだと否定するのはたやすいが…
僕がなぜそういう世界観を持つのか、
理解するのはきっとたやすくない。
僕を知ってる人間が、僕の文章を読んで苦悩するのは、
結局、僕が解らないと文章が解らない、
と感じるからだろう。

解らないのは、文意じゃなく僕であり、
不快に思うのは文章ではなく、僕自身だということだ。
極私的なサイトである以上、
それは一つの予想される読み手のスタイルだが、
書き手としての僕は
すべての文章を知人に宛てて書いてるわけではない。
書き手としての僕は、
すべてはフィクションを含んでいる、
読み手の私的感情なんて考慮する必要はない、そうも言える。

でも、それはなかなかできない。
意識的であるにしろ、無意識的であるにしろ、
人を傷つけてしまったら、それは広義に犯罪だ。
でも、僕のリアルな、そしてセンシティブな心情は、
そうした、センシティブなリアルのそばにある。
それを描くには、覚悟が必要だ。
伝えたいことは、書いてることの内容そのものよりも…
それを読んだときに起きる感情…

多くの人間が、言いたいことがあるだろう。
だが、僕は書くことを止めたりしない。
少なくとも、ここでは、
僕の感情を、映し、伝える、そのために、こいつらはいる。

“with an air of abstruction.”